Jazzanova interview
ジャイルス・ピーターソン インタビュー (GILLES PETERSON)

ジャイルス・ピーターソン インタビュー (GILLES PETERSON)
[Interview & Text by jun ide
Supported by Toshio Matsuura, Yuko Ichikawa@Yellow

●70年代だった少年時代にどんな風にして、音楽に興味を持ったのでしょうか?

もともと僕はロンドンで育ったんだけど、70年代だった当時、 本当に良い音楽を聴く事がすごく難しかったんだ。 なぜならば当時のロンドンは”ロックシティ”だったからね(笑) 僕が一番最初に良い音楽に出会ったのは、ロンドンの海賊ラジオ ステーションからだった。当時はまだクラブに行くには若すぎたからね。 その時初めてブラックミュージックを聴いたんだ。”カメオ”、 ”アースウインド&ファイアー”とかね・・そして、友達のお姉さんが すごく良いレコードコレクションを持っていて、時々遊びに行っては、 ”ボビー・コールドウエル”、”スティーヴィー・ワンダー”、 ”マーヴィン・ゲイ”なんかを聴かせて貰ったんだ。 それからちょっと変わったのも聴く様になった。例えば”ブロンディー”とか、 ”マッドネス”、”スペシャルズ”なんかの、スカにも興味を持った時期もあったよ。 あとはニューウエイブ系や、ちょとパンク系のものだったり・・ それから、ソウルやファンクに興味が移って行って、イギリス出身のバンドで ”レベル42”とか、”ライト・オブ・ザ・ワールド”を良く聴いていた。






●DJを始めたキッカケについて


当時は、毎週土曜日に近所のグロッサリーショップのバイトで、 野菜とか売ってたんだけど、バイト代がすごく安くてあんまり面白くなかった。 そしてある日、もしも僕がターンテーブルを2台持っていたら、 DJとしてパーティーでプレイしたり、パーティーをオーガナイズしたりして、 自分自身のためにやれるんじゃないかって事に気がついたんだ!そして16才の時に一番最初のパーティーをやったんだ。 まだクラブには入れなかったからね・・ パーティーを続けて行くうちに、ちょっとした”ファンキーガイ”として、 だんだんと僕の評判が広まって行ったんだ。ウエディングパーティーとか、 呼ばれればどこでもDJをやったよ(笑)

●当時一番気に入っていた12インチについて教えてください。

今でも覚えてる一番最初にクラブでプレイしたレコードだけど、 ライト・オブ・ザ・ワールドの"Round trip"っていう曲で、このバンドに、 ブルーイも参加してたんだ。この曲をプレイした時はすごくハッピーで、 自分にとって、本当にエキサイティングなレコードだったよ。


●少年時代、エプソムズタウンにある自宅の庭に、自分で海賊ラジオ局を作ったキッカケについて

当時、”海賊ラジオ局”を作る事なんて、誰も手伝ってくれるわけが無いから、全部自分でやるしかなかった(笑) そして誰がトランスミッターを作ってるかとか、色々と情報を収集して、 僕の家の裏庭に密かにトランスミッターを設置して、僕の部屋に飾ってあったミニュチュア・トレインセットを、ターンテーブルセットとマイクロフォンに置き換えて、 自分のショーを録音しながら、自分の海賊ラジオ局からブロードキャストし始めたんだ。

●海賊ラジオ局インヴィクタとの活動の経緯について

当時インヴィクタは、ロンドンで一番最高のソウル系の海賊ラジオ局だった。 彼らは僕がトランスミッターを使って海賊ラジオ局をやっているって噂をどこからか聞いたらしく、インヴィクタが警察に捕まって、トランスミッターとか 全部没収されたのを機に、一緒に海賊ラジオ局をやらないかって、僕にアプローチをしてきたんだ。自分のショーをやらしてくれるならという条件を出し、それがインヴィクタに行くキッカケになった。

●DJとして一番大事な事とは何でしょうか?

DJとして、良いレコードコレクションを持っているという事は、すごく重要な事で、 それを基盤に評判を作りあげて行く事にもなるからね。自分が持っている良いレコードを、 他のDJが持って無かったりね。現在は、ちょっと状況が違って来てると思う。どこへデモを送れば良いかとか、インターネットを通じて良い情報収集が出来るね。でも当時は、自分で良いレコードを見つけださなければならなかったんだ。
当時、ポール・マーフィーのレコードショップに良く通っていたんだ。 彼は僕にジャズとかラテン系とかの、本当に良いレコードを売ってくれた。 当時、彼は本当に一歩先を行くセンスを持っていたと思う。


●80年中半〜後半、プロとしてDJ活動をして行く中での、ターニングポイントについて

一番の理由は、普通の職に就くような事だけはしたく無かった。 以前の普通の仕事に戻るような事は、とても恐ろしい事だと思ってたんだ。 もし自分が音楽関係の仕事をして生活をして行く事が出来たらいいなと考えていた。  僕はすごくラッキーだと思う、どうにかこの世界で生き残ってこれたしね。 以前は、いくつかの仕事を掛け持ちしながら、苦しい時期もあったけど、 少しづつ地道に自分の名前や評判が付き始めて、自分のレコードやアルバムを Street Soundsっていうレーベルから,『Jazz Juice』っていうコンピシリーズを 出せる様になった。それからカムデムにあるクラブでプレイするようになって、 サウスロンドンにあるクラブとかで、パーティをオーガナイズするようになり、 少しづつUKの中で評判が広まって行った。 僕はジャズ・ガイとして認知されるようになって、結果的には、BBC RADIO LONDONで 番組を持つ機会が出来たり、KISS FM, JAZZ FMとかの色々なラジオステーションで働くようになっていった。 そしてレコードレーベルの オーナー、DJとして継続して安定的に活動出来るようになって行ったんだ。


●当時、どんなキッカケで、BBCラジオから、マッド・オン・ジャズという番組のDJの仕事をオファーを受けたのでしょうか?

当時、僕は元海賊ラジオ局出身のDJとして、巷で評判になって来ていて、BBC RADIO LONDONから、アプローチされたんだ。そこのスタッフが、僕のレコードとかを聴いたらしくて、声をかけてくれた。 僕の両親にBBCから、仕事をオファーされたと話すと、僕の人生が良い方向へ 進み始める第一歩となるようで、すごくハッピーになってくれたのを覚えている。 なぜなら、僕がDJ以外に、何か真剣に取り組んでいるものが無い様に思われていたからね。 BBCで働き始めてから、キャリアパスになるし、自分にとってもすごく自信になったんだ。でも当初BBCで予算 があまり無い事もあり、自分の番組が放送が出来なくなった。 そして、僕はディングウオールズでのイベントをスタートした。 ディングウォールズクラブは、サンデー・アフターヌーン・パーティーで、自分達でイベントをアレンジする必要があったけど、 このイベントがキッカケになって、後々"TALKIN LOUD"というレーベルも設立し、大きなクラブイベントになっていった。 
その前にも既にAcid Jazzというレーベルをエディー・ピラーと一緒に運営していた。 我々は、色々なアーティストをレコーディングしていて、例えば、"ジャミロクワイ"とか、"ブランニュー・ヘビィ"とかをレコーディングしたんだ。 そして、ディングウォールズ、"TALKIN LOUD"をやっていくなかで、Acid Jazzレーベルを 離れて、"TALKIN LOUD"レーベルを設立して、"ヤング・ディサイプルス"、 "インコグニート"とかと契約した。いまでは、ヒストリーになっているような昔の出来事だけどね・・・クラブ「ディングウォールズ」は、僕にとってかけがえのない経験であり、カルチャーでもあった。自分自身がクラブDJとして表現するキッカケになった、自分にとってすごく重要な クラブなんだ。

 
 
 


●90年初頭、アシッドジャズの黎明期ついて


アシッドジャズのコンセプトは、ちょっとした面白い事をやろうって事になって、 そのネーミングとかは、ほとんどジョークなんだ。それはひとつのムーブメントであり、 ステートメントでもあった。2、3年間はすごく面白い時期だった。でも他の世界の国々では、もっと真剣にとらえていて、それ以来、アシッドジャズという呪縛から、距離を置く様になっていった。なぜなら、僕はアシッドジャズという音楽タイプ、そしてムーブメントの中に、自分自身の音楽スタイルを型に制限されたく無かったんだ。 それはすごく力強いマーケティングタ−ムで捉えられていて、沢山の人々に対して、 日本のレコードレーベル、アメリカのレーベルから作品をリリースして行って、 例えば、ジェームス・テイラーとか若いミュージシャンとか、それに関連しているように なっていったんだ。 僕にとって、アシッドジャズは、もはやレトロ的な感覚になったっていうか、 少しオールドスクールになってしまっている。 僕は新しい事を継続してやっていきたかったし、自分にとってアシッドジャズは、アシッドハウスとのミクスチャーしたような事だった。 サイケデリック・ミュージック、ラテンミュージック、ファンク、レアグルーヴとか、 どちらかというと、自分自身の音楽に対する姿勢のような事だった。 そして、日本のU.F.O(United Futre Organization)は、その事を一番良く理解していた グループのひとつでもあったと思う。彼らはその歴史の中からエレメントを取り出して、 未来的な新しい音楽へ押し上げて行ったと思う。それは日本の音楽シーンにとっても、 すごく重要な事でもあった。 新しいシーンをつくり出して行くなかで、 継続して進化しつづけていくことは、すごく重要だと思う。 今でも、僕はYELLOWにプレイしにこれるし、名古屋、札幌とか色々と国内を回るけど、たまにアシッドジャズの時代から知っているような、顔見知りのファンもいたりする。 いまでは、色々な音楽スタイルを取り入れて行った結果、アシッドジャズのイメージにと捉われないで、少し違うように捉えてくれていると思う。

●90年中半、TALKIN LOUDの立ち上げの経緯について

すごくストレートだよ。 僕自身がシーンに関わっていたし、沢山のグループがここから輩出する事ができたし、 彼らには、サポートが必要でレコードをリリースする必要があったからなんだ。 当時、彼らはどのメジャーレーベルからも、オファーを受けていなかったから、 このアンダーグラウンド・ミュージックをサポートする必要があったんだ。 当時、マ−キュリーレコード、ユニバーサルレコードとかは、我々のアーティストと契約に興味を示していたが、 彼らはあまりインディー系のアーティストの事を理解していなかったように思える。 だからこそ僕はレーベルを設立したんだ。 メージャーレーベルと一緒に仕事をする事はすごく難しかった。 そこからすごく色々な事を学んだよ。トーキンラウドで11年経た。 5、6年前の話しだけど、自分にとって、ディープなレコードをリリースする事は、 本当に重要な事だった。例えば、カール・クレイグやニューヨリカン・ソウルなどに、 エグゼクティブプロデューサー的に、プロデュースに関わったりして、 自分はそれらのレコードを誇りに思っている。しかし、自分はそういう活動を一度 ストップさせて、ラジオとかの活動にも力を入れたかった。 僕は RADIO 1にも所属しているし、音楽親善大使として、色々な国々に 良い音楽を紹介したかったから、スタジオやオフィスにこもってばかりは 居たく無かったんだ。

 
 
 
 
 
 


●2006年〜"BROWNSWOOD RECORDINGS"復活の経緯について

約2、3年そういう時期を経て、今、ようやく自分自身の新しいレーベル、"BROWNSWOOD RECORDINGS UK"を立ち上げたんだ。"BROWNSWOOD"というレーベルの名前は、もともとあって、以前U.F.Oにあげたものなんだけど、なぜなら、当時彼らが自分達のレーベルをロンドンに作りたかったから、その時にレーベルの名前をあげたんだ。自分のスタジオもあったしね、、、 そして、U.F.Oが、そのレーベルをストップしたという経緯があって、去年、ちょっと思いを巡らしていた時に、もう一度、自分が"BROWNSWOOD"を立ち上げようと 思ったんだ。同じアティテュードでありながら、少し捻りを加えたようなレーベルをやりたかったんだ。"BROWNSWOOD"は、新しいアーティストである、Ben Westbeechのシングルをリリースしたり、ヘリテージ・オーケストラの作品をリリースしたんだ。今後は特に新しいアーティストの作品をどんどんリリースして行こうと考えている。すごくエキサイティングなんだ!

 
 
 


●ロンドンから世界に向けて、本当に沢山の良質な音楽を紹介し続けて来てますが、
当初と現在を比較して、何かビジョンや知覚的な変化はありましたか?

僕は、決して自分の音楽に対するフィロソフィーを変えた事はなかった。 昔から、常に新しい音楽を開拓する事に興味が有り続けたし、 だから、自分はラジオ局で毎週DJをしていた。 自分自身の人生の中で、常に音楽が必要だったし、音楽はドラッグの ように必要な存在だった。僕自身のDJ人生の上で成長していったんだ。 自分自身の音楽スタイルや好みは15年〜20年以上前から、そんなには 変化していないと思う。 もちろん音楽自体が変化したけど、アティテュード、フィロソフィーは とても似ているし、変わってないと思う。 例えば、バンクーバーのアーティストのエレクトロニック系のレコードをプレイしたり、 フィンランドのアーティストのフォークミュージックをかけたり、アーバンゴッド ジャズである、サン・ラーとかかけたりして、何でもミックスアップしてプレイするんだ。 ヒップホップも自分にとってすごく重要だし、そしてニュームーブメントである、 ジョ−・グラインド、ダヴ・ステップとか、呼び名は何でもいいから、自分は いつでもそういう新しいムーブメントに関わり続けている。なんでもエレメントを取り いれて、自分の領域でプレイするんだ。そこには、特にセオリーとかは無いし、 単に音楽を愛しているだけなんだ。音楽を沢山の人々と共有して楽しみ、 音楽によって、いつもエキサイトしていたいんだ。



●世界各国でツアー活動を続けて行く中で、国々によってクラウドの反応が違うと思いますが、何かエピソードはありますか?

場所にもよるけど、ある場所はすごく熱狂的だったり、またある場所は、実験的であったり、 オールドスクール的であったり、ラテン系だったり、そしてある人には、時折 難しい事も起ったりする事もある。セットの内容によっては、ちょっとガッカリさせちゃう事も、しばしばあったりもするんだ。彼らの中には、単に僕のリリースしたアルバムの 特定なDJセットだけを聴きたいと思っている人もいたり、たとえば、『バック・トウ・ブラジル』のアルバムを買った人とかは、ミックスに収録されているセット全部を聴きたいと思っている人もいたり、『BBC SESSIONS』を買った人とかは、Bjokの"who is it?"ていう曲とか、もっと聴きたいと思っているかも知れないし、さらに『Digs in America』を買った人は、そこに収録されている、いまではどこでも購入する事が出来ない古いレコードを聴いてみたいと思っていたりするしね。
すべての人々をハッピーにする事はすごく難しいけど、 例えば、イエローでプレイする時は、4時間近くストレッチアウトしてプレイできるから、違うエリアに行く事ができる。時々かなり難しいと思う事は、沢山の違う種類の音楽で、点と点を結んで行く事なんだ。 でも、もしクラウドが僕に付いて来てくれて、僕にあったかい気持ちを示してくれていたら、時々、本当に素晴らしい Voyageになる事もあって、実際にベストな Voyageになることもあった。もしあなたがミュージック・ラヴァーだとしたら、すこしハードな ものを聴いたりしたい事もあるだろうし、それに美しい音楽を聴いてみたくなるだろうし、 おそらくそこまで幅広くやれるDJはあまりいないと思う。なぜなら自分の持つ音楽ヒストリーが違うからね。自分自身すごく誇りに思っているし、それは特権だと思っている。 だから、いま現在も、熱意を持って継続してDJをやっていられるんだと思う。 これから先もすごく楽しみにしている。いつも公言してるけど、もしDJをやめる時は いつでも辞めようと思っているし、40才過ぎてもDJをやっているとは思ってもいなかったが、現在も継続しているし、今でも本当にアメージングだと思うよ。

 
 
 
 
 
 


●BBC Worldwideセッションで、一番印象に残っているセッションについて

今までに我々は本当に多くのアメージングなセッションをやってきているけど、 RADIO 1とかで、我々はラッキーな事に、自分達のレコーディングスタジオから セッションをやる事もできるし、その中でもベストセッションは、ビョークとの セッションだったと思う。なぜなら、彼女は本当に素晴らしいアーティストだし、 僕のショーのために、その小さなスペースでセッションをやった事が印象に残っている。 自分の中のハイライトだよ。いつかエリカ・バドウをやってみたい・・っていうか、 次ぎに是非やりたい!とにかくBBCセッションでは、本当に最高の時を過ごしている。


●最近ロンドンで一番良い音楽を聴ける、おすすめのクラブはどこですか?

ロンドンで良い音楽を聴くためには、いろいろとサーチする必要があるけど、 僕が思うに、現在はクラブ的にはあまりお薦めは無いけど、イリーガルな ハウス/フラットでのイベントとかの方が断然面白い。ロンドンでのメインクラブは、 "ファブリック"、"ミニストリー・オヴ・サウンド"とかあるけど、どれもメインストリーム のような感じだよ。ベストクラブとして、強いていうならば、"The End" かな?! あと、"プラスティク・ピープル"あたりかな・・・そこはすごく小さな クラブだけど、すごく良い音楽を提供していると思う。僕もそこでプレイする事を 楽しんでいるし、あと"カーゴ"とかでも、ライブミュージックもあるし、良くプレイする。僕自身で近いうちにクラブをオープンしたいと思っているよ(笑)


●イエローについて


YELLOWは、世界の中でもベストクラブの1つだと思う。世界中を旅していて、 ここでプレイした事のある、色々なDJからも、良い評判を聞いている。 YELLOWは、サウンドが本当に最高だと思う。もしDJならば、 サウンドが一番重要な事なんだ、特に年令を重ねてくるとね。 もし17才くらいだったならば、何を聞いても最高と思うかもしれないけどね。 それはそれで楽しくて良いんだけど、もし自分が長くプレイを継続させて、 楽しんでいこうとするならば、常に最高のサウンドが必要なんだ。 このクラブは、ずっと最高のサウンドとアティテュードを持ち続けていて、 常にハイスタンダードなDJやアーティスト達がパフォームしている。 いつもここでプレイする事は、本当に喜びなんだ。今夜ここでプレイ出来る事を 心から楽しみにしているよ。


●最近の日本のクラブジャズシーンについて、どう思いますか?

先日、名古屋でプレイしていたんだけど、"Native"というバンドは、 すごく良かった。日本、東京のジャズシーンはすごく良いと思う。ソイル・アンド・ピンプセッションとか、Jazzy sportとか、オールドスクールヒップホップをミックスしていたり、いつも何か新しい事が起っている。それはすごく良い事だと思う。 自分がプレイする音楽によって、ある場所では反応が小さかったり、ある場所では 反応が大きかったりして、場所によって違うと思う。
例えばドイツなんかでプレイした時に、また新しいインスピレーションを受けたり、それかアメリカだったり、東欧のポーランドだったり、実際最近ポーランドから帰ってきたんだけど、すごい事が向こうで起っている。いつも常にイタリー、スペイン、そしてフランスとかのどこかで、ライブミュージック系の、すごい面白いフェスティバルをやってたりする。 だから、シーンが様々な形で発展して、長い間生き残って来たんだと思う。 実際には、そんなに大きく変わっていないと思うけどね。
もし、何かシーン、ジャンルに名前をつけるとすると、例えばレアグルーヴとか、アシッドジャズとか、ニュージャズ、エレクトロニックなんでも・・・自分は、みんなエナジーを入れこんで、新しい音楽を作り続けている事に対して、とてもハッピーだと思う。 いまの若い人たちにはとても難しい事かもしれないけど、 我々が経験してきた音楽に対する、本当の意味での興奮というか、 そういう感覚的な所が失われているように思える。 ちまたには、本当に沢山の音楽が溢れ、情報が溢れていて、 いろいろな手段で、音楽との関わり合いがある。 時折 若い人々が、デモテープとか送って来てくれるんだけど、 (いつでも歓迎だけど)こういった若い人たち、新世代の人たちが、ある意味、先鋭ソルジャーな役割をもっていて、ソルジャーなくして、シーンの発展は無いと思う。 アーミーは、ソルジャー抜きでは戦えないのと同じなんだ。War of Music!(笑)


●How does music make U feel?

音楽はムードだと思う。一日中ずっと聴いているわけではないけど、 あまり音楽を聴き過ぎても、そのありがたみが薄れるかもしれない。 僕は時々、音楽は全く聴かないで過ごす事も多くあるんだ。なぜなら他にも 興味が有る事があったりするから。しかし、もし僕が悲しいとき、ハッピーなとき、 外に出たいとき、どんな時でも、音楽は僕にとっての人生そのものなんだ。
時折、音楽をあまり聴かなかったり、ありがたみを感じられなかったりする人に 会う事もあるけど、とても寂しい事だと思う。たぶん、彼らは良い音楽体験を していないからだと思う。 僕が17才くらいの時だったと思うけど、一番最初にアート・ブレイキー、ジャズメッセンジャーをナイトクラブで聴いた時、DJが”ナイト・イン・チュニジア”をプレイしていたんだ。あの曲は単なるジャズではなくて、ジャズを超越した本当にアメージングな音楽だと 思った。自分にとって、本当に新鮮な経験だった。それは、音楽を聴く環境だったりする 要因が大きいと思う。だからDJが良い音楽をプレイする事が本当に重要な事なんだ。 なぜなら、MTVの影響が多きすぎるし、商業主義的になり過ぎていると思う。 もし仮に自分が求めているような良い音楽を見つけたとしても、人々に対して、 プレイする時に、彼らが期待しているような、新鮮な音楽かどうかはクエスションだね。 だから、自分はいろいろなクラブでプレイしたいし、違うタイプのDJとプレイしたいし、 自分はジャズシーンのみでプレイはしたくない。
例えば、ビースルームというクラブでやったり、DJマーキーとプレイしたり、DJジンクとだったり、そういう類いのパーティーをやったりする。なぜなら彼らは違うタイプのオーディエンスに対して、いつもプレイしているし、 もし、彼らが僕のプレイする中に、何か捻りを加えているものに気が付いたりする 時もあるし、そういうのが彼らにとって興味深いところでもあったりする。 そうやって、新しい人たちを巻き込んで行く。 だから、僕はアシッドジャズという括りが嫌いだった。それ自体が、何か画一された つまらないものに捉えられてしまったからなんだ。たんなるサウンドトラックのような、 すごく狭心的なものになってしまった。 僕にとって人々がアシッドジャズを継続してやっている事にたいして、何も問題ない。 僕は扉を開いて、オーディエンスに対して、彼らが予期出来ないような音楽を聞かせる事 が大切なんだ。
まずは音楽を楽しむ事、音楽を作ったり、良いクラブにしたり、 良いレコードをバーでプレイしたり、そうやって自分は音楽をスタート したんだ。


 
 
 


GILLES PETERSON -ジャイルス・ピーターソン-
 
ジャイルス・ピーターソンの音楽への知識とDJとしての才能は往々にして期待以上の結果を出してきた。レフトフィールドと呼ばれるシーンに入り20年以上、彼は常にオリジネーターであり、そのDJセットは音楽へ対する限りない熱意に溢れている。長年のキャリアを通して、ジャイルスが成し遂げた事を一覧にすると本を書くほどになるが、簡略すれば彼はこれまでに自ら発掘した多くのアーティスト達をメインストリームに乗せ、20世紀後半のクラブ・シーンにおいて最も影響力を持ったレーベルであった[TALKIN LOUD]を運営し、また世界中のあらゆる街でDJをして来た男である。ジャズを中心にしながらも、音楽の境界線を砕き、多くのアーティストと点で結ばれる事は勿論のこと、その合間の空間をぬって来た人物である。
彼のBBC RADIO 1でのラジオ番組「WORLDWIDE」は現在、全世界18ケ国でオンエアされており、2005年よりここ 日本でもJ-WAVEにてスタートし、好評を得ている。彼が選んでプレイする1枚1枚のレコードがファンを魅了し、また世界中のDJやアーティスト達に常に大きな影響を及ぼし続けている。
今夏には新レーベル[BROWNSWOOD RECORDINGS]を立ち上げ、若干22才のニューカマーBEN WESTBEECH、総勢42名のオーケストラTHE HERITAGE ORCHESTRA、コンピレーション『BROWNSWOOD BUBBLERS』等を続々とリリースしていく予定である。※Yellow Dictionaryから抜粋




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[Interview & Text by jun ide
Supported by Toshio Matsuura, Yuko Ichikawa@Yellow

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Adriana Evans interview by jun ide/エイドリアナ・エヴァンス 特別独占 インタビュー: Adriana Evans exclusive interview by jun ide/
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